〜月齢3〜
戻ってくると約束した期限に、彼は帰ってこなかった。
「何故…何故、消息が掴めない?視察はとっくに終わっているはずだ!」
「お父様、落ち着いてください…」
王位を娘のリディアに譲った後も、大王として王宮を統べる父が冷静さを失うのも当然の事だった。
夫のアーウィングは隣国の王弟で、姻戚関係による友好関係の維持とより強い結束を担う人物である。
その彼を失えば国際問題に発展し、友好関係は一転して対立関係になるだろう。
「王子には無事帰ってきてもらう…いや、そうしてもらわねばならぬのだ」
リディアはその場を離れた。
一見落ち着いて見え、取り乱すような事はないが、心配なのだ。
アーウィングは約束を違えた事はなかった。
結婚する前から、リディアの心が自分に向くまで待つと、そう言ってくれたのだ。
それまでは、夜を同じベッドで過ごしても、指一本も触れない。
無理強いはしない。
その約束が破られた事はなかった。
以前、自分と会う度に花を贈ると言った。
その約束も、結婚した今でも続いている。
(――花…?)
ふと、出かける時にアーウィングが置いていった花の事が気になった。
あの、不安を煽る赤い花…。
アーウィングは花を贈る時、必ず言葉を添える。
花の持つ言葉で気持ちを伝えるのだ。
それが彼の国に伝わる風習である事をリディアは知っていた。
女官として仕えてくれている彼の乳兄弟なら、花には詳しいはずだと、
リディアはその女官を呼び寄せた。
肩で切り揃えられた髪がその真面目な性格を窺わせる。
「シレネ…貴方は花には詳しいのでしょう?」
「ええ。アーウィング様の影響ですけど…それなりには」
「だったら、赤い花…そう、ユリのような形状で、花びらに光沢があって…」
シレネは少し考えると、何か思いついたようだった。
「花びらに光沢…もしかしたら、ネリネでは?」
「それよ!その花の意味は…教えてちょうだい?」
シレネは気まずそうな表情をした。
「もしや、アーウィング様がそれを?」
「ええ…何か、意味があるのでしょう?」
リディアは真剣であった。
何か自分に対する特別なメッセージかもしれないと思ったからだ。
しかし、その答えはかえって不安を煽るものでしかなかった…。
「ネリネの花言葉は"また会う日まで"…
多分、単純に"少しの間、会えない"という意味だとは思うのですが…」
リディアは真っ暗になった。
まるで"拒否の言葉"を突き付けられたかのように思えたのだ。
「教えてくれてありがとうシレネ…下がってくれて良いわ」
かろうじで言葉を紡いだ。声が震える。
シレネが部屋を出ていく音がやけに遠く感じられる。
リディアは力なくベッドに倒れ込んだ。
(もし、アーウィングが帰ってこなかったら…)
目を閉じて想像する。
だが、浮かんでくるのは彼の笑顔ばかりで、リディアの心は悲しくなった。
彼の持つ純粋さに惹かれていることは気が付いていた。
自分に対して誠実で真摯な彼の態度に感謝もした。
だけど、こうして"彼を失うかもしれない"という不安に襲われてみて初めて、
彼の存在が自分の中で大きく、重くなっていた事に気づいたのだ。
知らない間に眠っていたらしい。外がもう暗い、夜になっていた。
「眠ってしまったのね…」
ふいにベッドの左側を見た。
いつもアーウィングが眠っていたであろうその場所。
その場所に触れてみる。
シーツの感触と、ひんやりとした冷たさがそこにあるだけで、存在の不在を伝えている。
「寂しい…こんな気持ち、もうずっと忘れてたのに…」
寂しいと感じる隙もないくらい、自分は彼の愛に充たされていた。
その気持ちは十分に伝わっていたのに…。
振り向かない背中、それを見つめながら眠りについた日々。
少しだけ勇気を出せば、手を伸ばせば…。
「傍にいてくれるって…幸せになろうって…約束。
もう少しなのに…やっと、気が付いたのに…どうして?」
止めど無く涙が溢れて、このまま心まで枯れてしまいそうだとリディアは思った。
シーツを握り締め、抱き寄せる。
「どうして…」
欠けた月が満ちるように、心に切なさが溢れる。
流した涙で溺れてしまいそう…。
恋に気づいた夜なのに、どうして貴方は傍にいないのでしょうか?